誘拐　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2006年7月

時給：百万円という「カリスマ美容整形外科医」の娘が営利誘拐されたとき、
私がすぐさま思い出したのは、1985年に起こった「芦屋令嬢誘拐事件」でした。

20年前も、テレビはこの事件をセンセーショナルに報道し、芦屋市 六麓荘の
被害者宅…そう、ベラボーな大邸宅…の映像を再三にわたって放映しました。
周りの環境もさることながら、それはそれは凄いお邸でした。
「ああ、ホンマモンの金持って、こんなのを言うんだなあ」
と、妙に得心したものです。

芦屋の誘拐事件もやがて進展を見せ、分別盛りの中年男が逮捕されました。
そして令嬢も無事に保護されたのです。そのとき、テレビニュースでは
六麓荘の大邸宅に続いて犯人の家が放映されました。

六麓荘の大邸宅を見た直後だけに、私がテレビで観た犯人の家は ひときわ
粗末に見えました。文化住宅…というのでしょうか…間口の狭い木造モル
タル二階建ての犯人の家…夕食どきに撮ったのでしょうか、その家の窓から
も橙色の温かそうな灯りがこぼれています。

突然「ヒーッ！」という女の泣き声…臓腑を抉るような声が聞こえたと
思ったら、画面はもう次のカットに移っていました。

犯人の家の映像は、ほんの三秒か五秒のカットでしたし、それ以後、この映像
と泣き声は二度と見聞きしたことはありませんが、あの声は私の耳に残りまし
たねえ。たぶん、犯人の妻か、娘の声だったのではないでしょうか。
悲鳴とも泣き声ともつかぬ女の声…。

前後の経緯や、道徳、法律、社会通念を飛び越えて、私は率直に『可哀想だな』
と思いました。
何も、犯人に同情したり、六麓荘や時給百万円をやっかんだりしているわけで
はありません。

格差社会が怪しからんというのでもない、ただ『可哀想だな』というやりきれ
ない思いが強く残りました。

あの泣き声が妻のものだとしたら、「アホな亭主を選んだ奥さんも運が悪かった
な」と、少しは救いがあるのですが、もし「娘の叫び」だったとしたら…確か、
あの家には、誘拐された令嬢と同年輩の娘がいたはずです。もしその娘だった
ら何ともやりきれません。子は親を選べない。

同じ阪神間で同じ時期に生まれた二人の女の子…攫われた方も可哀想ですが、
父親が誘拐犯と知った娘は、もっと可哀想に思えてしまうのは、私の根性が
曲がっているからでしょうか。

想像したこともない豊かな環境で育った同年輩の「芦屋令嬢」を誘拐した父親。
この事件を、彼女はどう理解したらいいでしょう。もう、泣くしかしょうがない。

事件解決後、六麓荘の記者会見は、印象に残るほど派手なものではありませんで
した。それにひきかえ、奇妙な建築物の前で行われた今回のド派手な母子の会見
は印象に残りましたなあ。

近頃、やたら失態の多い警察…今回も、川崎のマンションに踏み込んだ警視庁
は、管轄外で土地勘がなかったのか、地元の署轄を出し抜こうという功名心
から慌ててしまったのか…見当違いのお宅に踏み込んで大恥をかいていました
っけ。

そんなドジ警察をば、厚化粧の母親が賛辞を送りまくっていたのも気になり
ましたね。警察はそれが仕事です。むしろ、拉致車両のナンバーを即座に通報
した目撃者こそ、感謝されて然るべきではないでしょうか。もし速やかなる
通報がなかったら、もっと異なった展開を見せていたかもしれません。

何だか、スカッと喜べない、後味の悪い事件だったと、私は感じたのです
が、どうも営利誘拐事件で、解決したあとスカッとした…という記憶は
ありませんなあ。（06：07：01）

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
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　　　　　　　　　　　　　　　　　 （２００６年７月）