名監督・溝口健二の遺作となった「赤線地帯」は売春防止法が全面実施
される前夜の吉原が舞台でした。
あれから半世紀…厳密に言えば、今年の四月一日で『売春防止法』は
満四十九歳…ということになります。
私が学校へ行っていた頃は徳島の街でも、まだまだ赤線や青線は健在
でした。
赤線、青線…若い人にはピンと来ない言葉でしょう。赤線とは合法的
な遊郭のこと…ですから「赤線地帯」の映画に出ていた女優たちの役
どころは、公娼ということになるわけです。
一方、青線の方は非合法な売春街に他なりません。
例えば一階でスタンドやカフエなどを営業し「ナニでしたらお二階へ
どうぞ」というシステム…ですから青線地帯は、「私娼窟」とも呼ば
れていたのです。
徳島市内の青線地帯を私は二ヶ所ほど知っていますが、ちょっと
ガキが近づけるような街ではありませんでした。
今はすっかり雰囲気も変わっており「あそこが青線だった所でよ」
なんて書くのは憚られるほどの変貌ぶりです。
＊ ＊ ＊
私が中学、高校、浪人を過ごした徳島の家は、栄町二丁目でしたから
、赤線地帯の直ぐご近所でした。
同窓生に廓のお嬢ちゃんもいましたが、別にどうということもない。
あの頃の遊郭は事ほど左様に地域の中でごく自然に溶け込んでいたの
です。なにしろ公に認められた施設ですから、アッケラカンとした
存在だったということでしょう。
その代わり公娼制度にはそれなりの｢縛り」があったようです。
例えば秋田町の外れの線路際に「愛生病院」というのがあって、
そこでの定期検診が義務付けられているということは子どもでも
知っていました。黄色っぽいペンキで塗られた大きな病院を見上げ
ながら、ふむ、こんなとこで頻繁に検診を受けなアカンとは難儀な
商売じゃなあ」…と、ある種の感慨を覚えたものですが、そんな
彼女たちと一度だけ商売抜きの交流があったのです。
栄町で浪人していた私は気分転換のため、たびたびスケッチに行って
いました。
そんなある日、園瀬川沿いの見晴らしの良い場所で、
シコシコ絵筆を
振るっていたところ、いずこからともなくやって来た
お姐ちゃんが二人、私の後ろでやいのやいの、
どうのこうのと、絵を批評したり話しかけてきたりする
のです。
「絵描きさん、上手に描けとるでせんか。時間が無うて
完成まで待てんけんど、でけたら一枚頂戴よ、部屋に
飾っとくけん」
そんなこと言われて悪い気はしません。
ところが何の屈託もなく彼女の教えてくれた届け先が何と、秋田町の
遊郭○○楼だったのです。
夕方までに何枚かを描き上げた私が、約束通り店を訪ねたところ、
大柄なほうの彼女が二階から降りてきました。
厚化粧で既に営業体勢に入っています。一瞬驚いたような表情で、
「いやあ、持てきてくれたんで？ ありがとう。ちゃんと飾っとく
けんな」
気に入った一枚を選んだ彼女…そんな彼女とはそれきりのご縁でした
が、もしご存命だったら八十歳近くになっているでしょう。
別嬪さんだったし、艶のある大きな声、屈託のないキャラクターから
推して、きっと幸せな人生を歩んだことと思います。
それにしても、私の拙い絵が廓の一室に飾られていたとしたら、そして
登楼中の客が何気なくそれを眺めていたら…、さらに、本紙の読者の
中にそんな御仁がいたとしたら、こんな愉快なことはありません。
但、彼女があの絵を部屋に飾ったという証拠はどこにもありませんが…。
＊ ＊ ＊
旧制徳島中学と城南高校の同級生で、高校を出て直ぐに、秋田町で遊郭
を経営していた男がいました。若くして亡くなりましたけど…。
１９５６年の一月、彼と阿摂航路の夜行便で一緒になったことがあり、
船底の二等船室で枕を並べてベチャクチャ喋りながら旧交を温めて
いました。
昔、関西汽船の夜行便は、ボーイに十円払って毛布を借り、それを引っか
ぶって仮眠をとっていたものです。
当時学生だった私は徳島の実家で正月休みを過ごしたあと、京都の下宿
に戻るところでしたが、彼の方は、新しい女の子の身柄を引き取るため
九州の「炭住（たんじゅう）」へ出張する途中だということでした。
炭住…若い方はご存じないかも知れませんが「炭鉱住宅」のことです。
財政再建団体に転落した夕張もそうでしたが、石炭産業華やかなりし頃、
企業は人里離れた炭鉱の周辺に、次から次へと社宅を建てて、安い労働力
を家族ぐるみでかき集めていました。
しかし、私たちが夜行便で一夜を明かしていた時期、炭鉱不況の足音は
密かに忍び寄っていたのです。
何が何でも、娘を稼ぎの良い仕事に就かせたい…
まさか戦前のような人身売買はなかったでしょうが、契約金としてまと
まった金が支払われていたようです。
当時の私は思春期真っ只中の貧乏学生でしたから、売春婦に対して奇妙な
憧れの念を抱いておりました。
「おまえが羨ましいわよ。自分の家に別嬪さんが何ぼでも居るんじゃけん
なあ」
遊郭の御当主は目を剥いて反論してきました。
「おまえアホとちゃうか。商売モンに手ェ出したら、絶対にアカンっちゅう
のはこの業界の鉄則じゃ。そんなことしたら途端に女の子が言うこと聞かん
ようになるんぞ。よう考えてみい」
これは私にとって大きな教訓でした。
放送局に就職した私は、彼の教えを拳々服膺（けんけんふくよう）して、
同僚の女子アナや、仕事仲間のタレントさんに手を出さなかったばかりか、
浮いた噂の一つもなく、定年を迎えることが出来たのです。
まあモテなかったからかも知れませんが…。
彼はもう一件、私の知らない世界を教えてくれました。
赤線地帯の一角に存在する「味見屋」という男性の存在です。
連れてきた女の子をテストするのが商売…つまり、味見屋の査定によって
適応性やランク付けが決まるという話でした。
一見、男冥利に尽きる職業のようにも思えますが…場合によっては、騙され
て連れて来られた子を観念させる業務もこなしていたらしく、あまり寝覚め
のいい仕事とも言えないのです。
女性からすれば鬼畜そのもの、男にとっては聊か妬ましくもある「味見屋」
…山陽地方で「がんき屋」と呼んでいた、という話も耳にしましたから、
売春防止法が施行されるまでは、こういうオッサンが日本中で活躍していた
ようです。今はどうなんでしょうか…。
大学の先輩で今でも男前の爺さんがおります。１９５４年（昭２９）の卒業
ですから、売春防止法発効まで、三年もの猶予期間がありました。
ですから、東京勤務だった独身時代の彼は頻繁に吉原通いをやっていたそう
です。
何しろ彼は男前で身長も私より五糎は高い。吉原に馴染みの妓(こ)ができた
りして、一種の「赤線モテモテ男」でありました。
売春防止法の発効直前まで彼が通いつめた馴染みの彼女はこれを機会に売春
から「足を洗う」決意を固め、彼にこう打ち明けたのです。
「アタシね、もう田舎へ帰ろうと思ってるの。色んな男たちの相手をしてきた
けど、一番好きだった貴方に、ぜひ頼みたいことがあって…」
聞けば彼女は売春終了記念に、兼ねてから憧れていた温泉旅行に行ってみたい
と言うのでした。
女一人で温泉旅行というのも侘しいし、お仲間たちと行ったのでは慰安旅行
みたいで変わり栄えしない。
そこで頭に浮かんだのが、スラリとした男前の彼だったというわけです。
彼女の提案は次のようなものでした。
①強羅温泉への二泊三日の旅に付き合う。
②交通費、宿泊費、食費等、全て彼女持ち。
③但、男と女の関係はナシ。
…というのです。
三日間の休暇を取った彼は、喜び勇んで彼女と強羅
に赴きました。
「まあ③については蒲団に入った段階で何とかなるやろ」
…てなもんです。
ところが、何ともならなかったんですって。
和室に並ぶ二揃えの蒲団。…なのに、
つい数日前まで致していたことが出来ない。
「約束したでしょッ！」
断固拒否され、手も足も出なかったというのです。
「殺生な旅行やったでェ」色男はぼやいてましたなあ。
（徳島エコノミージャーナル 2007年 四月号）
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